みなさんは「聴覚過敏」という言葉を聞いたことがありますか?
「聴覚過敏」は感覚過敏の一つで、身の回りの音が、日常生活に支障が出るほど大きく聞こえることで、不快感や心的ストレスを感じる症状のことを指しています。 症状を表す言葉で、病名ではありません。
症状としては、個人差があり、自分の場合は、大きく聞こえると、偏頭痛や嘔吐、イラつき、胃もたれが出てきます。
今回の記事は自分が聴覚過敏だと気づいた経緯を話していきたいと思います。
音に敏感なこども時代
物心がついた時から、音に敏感でした。当時聴覚過敏という言葉も今以上に知られていない時代ということもあり、家族もただ私が音に怯えているだけで「音に慣れるようになるから大丈夫よ〜」とよく言ってました。
しかし苦手な音は年々増え、小学校で一気に苦手な音が増えていくのでした。
▼ 3歳:花火の音
自分の記憶にあるはじめての音への恐怖は「花火の音」でした。
今は防音アイテムなどを着用し、花火の音を遮断しながら花火を会場まで見に行きます。
しかし防音アイテムを使わず見に行った時、耳に爆弾を投げつけられたような音で、耳が痛く怖すぎて泣いた記憶があります。後々両親から伺うと、耳を塞ぎ大声で泣く私の姿を見てかなり驚いたそうです。この出来事以降、花火の音が小さく聞こえる距離から見にいくようになりました。
▼6歳:保育園での映画
『千と千尋』を保育園のスクリーン映画をみた出来事は2度とスクリーン映画を見たくないと決意するくらい嫌な体験のひとつです。初のスクリーン映画は、耳の隣に大音量のスピーカーをながされているほどのボリュームに感じ、音声によりしんどくなったため先生と一緒に部屋に移動したことを覚えています。
この頃から音がしんどかった時は先生に伝え、別室に移動し耳が落ち着くまで待機する方法が日常化していきました。
▼ 7〜12歳:マイクを使用した朝礼や運動会などのイベント
小学校に上がり日に日に聴覚が過敏になっていくようになり、授業よりも学校行事は私にとって一番音への恐怖心が増すイベントでした。
●文化祭
いろんな音が混ざる文化祭は、私にとってどの音を拾えばいいのか音疲れをしてしまうため文化祭は苦手でした。特に女の子のきゃーという高い声は耳が痛くなるためいつどのタイミングで聞こえるか怯える時間でした。
●運動会
また運動会は年々苦手になり、高学年になった頃には毎年休む恒例行事のひとつでした。
合図に使用するピストル、マイクを使用した放送音、みんなの応援する声はとてもしんどく一日耳を抑えていました。周りが自分みたいに耳を塞げていないところを見たのがきっかけで、「自分は周りよりも耳が敏感なんやな」と気づくようになりました。
それ以降イヤイヤ参加していましたが、少しでも楽しく参加できるように
「ピストルの音が苦手なのでリレーの時、笛で鳴らしてもらっても良いですか?」とお願いしてみましたが、「特別扱いになるのでダメです。」とキッパリと断られてしまいました。
また音楽の発表会やマイクを使用したイベントも苦手でした。
●音楽の発表会
音楽の発表会では、1ヶ月ほど続く歌の練習は音程がバラバラのため体調不良につながり、練習を欠席したいというと「団結力が大事」・・・など参加しないことはクラスから白い目で見られ居場所がなくなる時もありました。
●マイクを使用したイベント
また、マイクの電子音が何よりも苦痛で、「距離を離れるか、別室にいるか、廊下にいるか」の3択しかありませんでした。
休み時間の時放送音が苦手でよく教室に放送音の音を調節する装置があり、その装置で音のボリュームを下げていました。
毎年恒例の行事は音のトラウマを深め、苦手な音が増えていく小学生時代でした。
「光とともに」の本との出会い
聴覚過敏の名前を初めて知ったのは「光とともに」という漫画。
主人公は聴覚が敏感で、私と苦手な音が一緒だったことから初めて「聴覚過敏」という言葉を知ることができた本です。
その頃は友達があまりいなく、双子の妹が私の親友だと思っていた当時、私は漫画や小説など本を読むことや絵をかくことが好きでした。この本は休憩時間の時、偶然に手にとった本で、読めば読むほど「私と似てる症状だなあ」と感じました。
10歳の時母が気づいてくれた
実はその時期に母は小さい頃から自分が「聴覚が過敏な症状がある」と薄々気付いていました。
私が10歳の時に母が「あなたは聴覚過敏なのかも。」と話してくれました。聴覚過敏だと気づいてから、母が防音アイテムを探してくれてイヤーマフと出会います。
学校を過ごしていくうちに「やっぱり自分は聴覚が過敏?」と思っていましたが、「光とともに」に出逢ったことや母の言葉もあり自覚したとともにとても安心しました。
なぜかというと「なんで自分は周りと違うのか」「なぜみんなは理解をしてくれないの?」などマイナスのことを考えていたので、そのことを知ることで不安な気持ちがだんだん消えていったからです。
“聴覚過敏をもつワタシ”になってから
私が”聴覚過敏”だと知ってからは「自分の苦手な音」や「自分の行動」などを先生や友人に伝えやすくなりました。
我慢するのではなく、人に頼ることは自分のためにも必要なことなのだと学びました。
上手く伝えられるようになるには数年かかりましたが、そんな私が今思うことは
「理解してもらえることを待つよりも、伝えることは意外と相手に伝わること」そして「配慮してもらえる可能性がある」ということです。